ヰ記列伝二 0pponent 伝 (03/11/15) - wikipediaについて語るスレ (趣味一般@2ch掲示板)


'''0pponent'''(おぽねんと)は、ウィキペディアのユーザーで、管理者に推薦されたことがある。
パソコン通信時代からのネットワーカーである。
好きなものはリンク。


===Opponentの登場===

Opponentは、2002年5月から人力検索サイト「はてな」で活躍した。
はてなは利用者が作るプロジェクトという点で、ウィキペディアと通い合う部分がある。
ウィキペディアの方が後発なので、はてなからウィキペディアに出張してくる人もけっこういる。

はてなでのOpponentは、2002年6月から2003年8月までの15か月の間に、ただの1度を除いて常にランキングの4位以上を占め、1位を5度、2位を6度とった。
ここで磨かれた調査能力をひっさげて、ウィキペディアに乗り込んだのは、2003年10月4日のことだった。

その第一歩で、「京都大学」の出身者リストに大島渚を付け加えた。
それから大島渚の記事を新規執筆し、同じ日に福島菊次郎も新規に書き起こした。
いずれも要を得たもので、初日から注目を浴びた。

それからしばらく、Opponentの情熱は、もっぱら映画など文化に関する記事作りに向けられた。
Opponentは英文読解に堪能で、英語版ウィキペディアを理想とし、英語サイトへの外部リンクを熱心に作成した。

Opponentは、自分が書いた記事を修正した人に、過分とも思える感謝を記した。
まめに反応するOpponentと、ノートへの書き込みが多い0null0とが和やかに言葉を交わすのは、過去には何度か見られた場面である。
こうした律儀さは、Opponentの美点であったが、後には批判者への反撃でも発揮された。


===不思議の国のアリス論争===

Opponentが最初に怒りを爆発させたのは、10月16日に自分が書いた「不思議の国のアリス」の転載部分に疑問がついたときであった。
誰もがひっかかるGNU FDL
著作権のややこしい関係が、ここでも議論になった。
GNU FDLには、自由であることを厳しく要求する側面があるので、著作権的にOKでもGNU FDL的に不可ということが時々おきる。
だが、GNU FDLのややこしさを知らなかったOpponentには、こうした議論は愚かしい言いがかりと思えた。

Opponentは、17日に「不思議の国のアリス」を白紙化した。
これが元に戻されると、「いささか立腹しております。
パソコン通信時代から相も変わらぬ不毛な議論にはつきあいかねます。
これがわたくしの感想です。」などとコメントして、自分が書いた文章をあちこちで削除して回った。

この削除をIPユーザーとして行なったため、少なからぬ混乱が生じた。
後のOpponentの弁明によると、そのとき、設定問題により、Opponentはログインできたりできなかったりしていたのである。

削除の事情がはっきりしたところで、出でやるが「もう少し問題の推移を見守って頂くというわけにはいかないでしょうか」と慰留した。
Opponentはその言葉を受けてウィキペディアからの離脱を思いとどまった。

「(私が)熟慮の結果申し上げた諸点に対するコメントとしては、あまりに無根拠 で、ただいたずらに罵詈を投げつけるようなものが多かったと感じ、焦立った、というのが理由です。
リンクを付けるなどして根拠を示して頂ければよかったのですが、言いたい放題で雑言を投げつけられるばかりでは……と思ったのです。」

Opponentは釈明した。
Opponentが指した箇所の議論の流れを解きほぐしてみよう。
本文の中に部分転載の文章を、元の筆者によるコピー許可表示とともに載せたというのが、争点になった事実である。

「熟慮の結果申し上げた諸点」から白紙化実行までの間に書き込んだのは、Tomosいぬsphlの三人である。
罵言(ばげん)らしきものはそこにみつからない。

「熟慮」書き込みでのOpponentの意見は、この転載は、著作権法違反にはならないというものであった。
Tomosとそれ以前の人々の意見は、この転載は(著作権法ではなく)GNU FDL違反になるというものであった。
Tomosは、もしこれが転載ではなく引用とみなされるなら、GNU FDL的には問題ないとした。

いぬとsphlの意見の趣旨は、その箇所は引用とは解釈できないだろうと、(Opponentに対してではなく)Tomosに対して反論することにあった。
察するに、Opponent著作権法をクリアしたものがGNU FDL違反でアウトになるという話を、この時点で理解していなかった。
著作権法が認めるものならば、ウィキペディアは当然に認めるはずだし、認めなければならないと考えるのは、よくある誤解である。

そして、いぬsphlの意見を、Tomosではなく自分に対する批判だと受け止めたのだろう。
二つの誤解が重なって、Opponentは、的外れな非難ばかりが横行していると思ったのではないだろうか。

著作権法はネットワーカーなら誰もが関心を持つ分野である。
Opponentもまた著作権法について調べたことがあり、自分の知識に自信があった。
その自信が、GNU FDLという別問題の理解を妨げた。
そうした事情はあるとしても、「無根拠」「罵言」「雑言」といった言葉を読んだ人々は、確実に反感を抱いた。


===レニ・リーフェンシュタールとニュースサイト論争===

ウィキペディアには自分より詳しい人がいないという自信を持ったまま、Opponentレニ・リーフェンシュタールで次の論争に突入した。
10月20日に、Tanuki Zが外部リンクに疑問をさしはさんだのがことの始まりであった。

Opponentは、著作権関係のリンク集を掲げることで回答した。
人力検索サイトでの回答は、リンク集を作って直接外部にディープリンクを張る形式をとる。
彼女にとってリンクをずらりと並べるのは馴染みの回答方法であり、また、そういう形式が間違っているという意見はウェブの常識に反する初歩的過ちなのであった。

実のところ、リンク自由の原則に反対しようとする人は、この時点でほとんどいなかったと思われる。
しかしこの日の議論の急速なエスカレートが、Opponentへの支持を激減させた。

田中正平という新規ユーザーが、「また、tanukiZさんが不要な論争のタネを蒔いていますね。」に始まる文章で、Tanuki Zを攻撃し、Opponentを支持する書き込みを繰り返した。
この議論で初めて登場した彼が、なぜ他人の過去のことを知っている様子を見せるのか、彼が他の場所で記事を一切書かず、ノートで非難を繰り返しただけで消えたのはなぜかと問うていけば、、この人物は誰か別の常連が取得した分身なのだと考えるしかない。

Opponentを支持する主張をした上で、この日の前後に記事を少しだけ書いて消えたユーザーには、他に、DarjeelingStarbucksStarbacksとは別)、Guinesがいた。
ウィキペディアは愛想が悪い人が多い場ではあったが、強い言葉で相手を罵るのは異例であった。


しかしOpponentにとってはそうではなかったらしく、田中正平に感謝しつつ、しだいに怒りを募らせながら長文の批判を書きつづった。

そうした意見に付けられたコメントを拾い集めよう。

「消耗なご意見は勘弁してください。>Gombe さま」
ウィキペディアの方針を「変えようとしているわけではありません。Webの常識を再確認して欲しいだけです。」
「 いいがかりに思えます。>0null0
「回答要求」
「再度回答要求」
「あなたのような放言がまかり通ることへの怒りです。」
「解決済の問題。議論好きの子……。うーん。」
「【至急】回答要求。 沈黙は卑怯です!」

この攻勢がぴたりと止まるのが、10月25日である。
そのきっかけはヰ記0null0伝で述べた0null0の「疑問・疑念」発言であろう。
以後の議論はTomosKkに引き継がれたが、他の人たちが身を引いてしまったため、宙に浮いている。

いったいどうしてここまで事がこじれたのか。
推測するに、Opponentは自分の能力に確信を持つ人であった。
過去の実績に裏付けられた自分の能力を持ってすれば、ここでも一流の評価を獲得することは難しくないとOpponentは考えたのだろう。
もっともなことである。

だが、その自信が、彼女の理解力を曇らせた。
自分が間違っているはずがないという確信から、Opponentは、相手は愚かなことを書いているに違いない、悪意で妨害しているに違いないと思い込んだ。
結局、どちらの論争でも、Opponentは最後まで相手の論理を理解できていなかったように思われる。

特に二番目の論争では、大量のリンクも、引用も、批判も、本当は不要だったのだ。
立ち止まって単に数日書き込みを控えるか、事情を尋ねるかすれば、事態はリンク自由の方向に動いていったはずだ。


===事件の余波とその後のOpponent===

Opponentが自分の分身を立てて世論操作を狙ったという意見は、議論に加わったり傍観したりした人たちに広く信じられるようになった。
その可能性は高いとヰ記の著者も判断する。
だが、その人数は2ちゃんねるでの憶測より少ないだろう。

誰がそうかを決めることは、いくら検討を重ねても不可能である。
その点は11月5日にOpponentが書いた通りで、「自分自身に身に覚えなど全くない周辺の方々のことについて、どのようにしてあなたの疑問を解消せよとおっしゃるのでしょうか?
可能なことならやってみもしますが、それは可能なことでしょうか? 」

この事件の後に、使い捨て用ユーザーを作ったりIPで書き込んだりして非難の言葉を投げつけた例がみられ、それはOpponent以外の誰かによると思われる。
ウィキペディアに残されて悪しき遺産であった。

論争の間に、激しい攻撃に辟易した人たちが、ウィキペディアで口に出せない疑惑と反感を吐き出すために2ちゃんねるに流れ着いた。
ウィキペディアについて語るスレ」はニュースサイト論争を糧に成長し、今ではウィキペディア2ちゃんねるの流儀を輸出する拠点になった。

Opponentはニュースサイトでの議論を停止した後、元のように記事の執筆にとりかかった。
自分のノートページに、自分に賛成する人、反対する人へのリンクを作成した。
IPユーザーにやめた方がいいと言われて、5日に削除した。


文化から性にも分野を広げ、フェミニズム強姦を充実させた。
この時まで、性にまつわる記事は性産業の消費者の欲望を直接反映したようなものが多かったから、Opponentの仕事は新鮮であった。

11月2日に登録したKim kimは、その日に強姦の記事を「秀逸な記事」として推薦し、5日にはOpponentを管理者に推薦した。
Opponentはどちらも辞退した。
2ちゃんねるに集まった人は、その地の流儀に従い、Opponentの仕事に難癖をつけ、Opponent推薦を自作自演と決め付けた。

しかしそうした憶測を真に受ける必要はない。
執筆者として精力的に働いている限り、Opponentのような個性の強い有能な人材は貴重である。
結局のところ、転載やリンク自由には賛成する人が大半だろうし、彼女がフェミニストであることを理由に貶めようとする発言には、大半の人が憤りを感じることだろう。
日々新しく参入してくる人たちがOpponentを評価する目は、そのようなものである。

しかし、別の人たちは、嫌味たっぷりの論争者としてのOpponentを記憶にとどめ、嫌い続ける。
他人が長短どちらの面を重視しようと、Opponentはどちらか片方だけの人ではなく、両面を併せ持つ人であり、それはたやすく変わったりしないだろう。