ヰ記列伝一 0null0 伝 (03/11/14) - wikipediaについて語るスレ (趣味一般@2ch掲示板)


'''0null0'''(読み方不明)は、管理者見習い。
自称は「俺」で、この呼び方を改めようとしても改めることができずにいる。
子供あり。

固定ユーザとしての初書き込みは2003年9月6日。
その内容は、わずか一語「暇な人。」であった。
今日からは想像もできない人物像である。
それとも、暇だからこそある現在なのか。

初の記事修正は、「ワールドゲームズ」で、オリンピックという単語に を付け加えた。
赤リンクとスタブ記事を作って遊んでいたが、急速にウィキペディアのスタイルを身につけ、価値ある修正を施すようになった。
しかし、長文の記事を書くのはいまもって苦手である。

一週間後の9月13日には、自分のノートページに「百科事典という大前提を逸脱している書き込みが増加しているのはいかがなものなのだろうか。」などと不満を漏らした。
これ以後、この主張がウィキペディアにおける彼の存在意義となっていく。

10月20日から、ウィキペディアでは、新聞記事への外部リンクについて議論が続いていた。
0null0はこの議論に加わっていなかったが、22日に「Wikipedia‐ノート:ニュースサイトNo.2」に外部リンクは必要なのか、と疑問をさしはさみ、Opponentから激しく反発された。

その夜、0null0の会話ページに、Opponentが「猛省を求めます」と、Darjeelingが「この方(0null0さん)は、いわゆる書き逃げでしたよね。」と相次いで書き込んだ。
有力コテハンが他人のノートに非難の書き込みをする行為は、衝撃とともに編集合戦の不吉な予感を人々に与えた。

2ちゃんねるの趣味板にある「Wikipediaについて語るスレ」にウィキペディアからの漂着者が増えたのは10月21日、22日からである。
はっきりはしないが、これも本体の荒天の影響かもしれない。

0null0はしばし沈黙してから三日後に答えた。
「ある疑問・疑念が晴れない限り、回答する予定はありません。
しかしながら、それがどういう疑問・疑念かということについては間違いであった場合非常に失礼にあたるのでここでは説明しません。」という歯切れの悪いものであった。
後にわかることだが、この疑問とは、Darjeelingら複数のユーザは、Opponent当人が世論形成のために取得した分身ではないかというものだった。

この事件から、0null0の運営問題に関する関心はいっそう高まったと思われる。
10月末からは、あまりうまくいかなかったものの、鉄道問題に介入を試みた。
11月1日からは、2ちゃんねるの前述のスレッドに書き込みをしている。

11月5日午前深夜に、Opponentが管理者に推薦されると、過去にOpponentがした白紙化攻撃をとりあげてこれに反対した。
同日夜に自らウィキペディアの管理人に立候補した。
2ちゃんねるで自分が0null0に攻撃されていたことを知ったOpponentが反対すると、0null0はこう答えた。

「私はOpponent氏の賛同記事についてはかなり色眼鏡でみている。
そこ以外ではみたことのないステハン(その場だけのハンドルネーム)が散見される。
    (中略)
私が昨今、Wikiぺで思っている最大の疑問がこれです。」

というものであった。
こうして0null0は、あちこちで囁かれていたOpponent分身疑惑を正面から突きつけた。

彼の管理者立候補に対する反応は賛否があったが、管理者と常連の反応は好意的であった。
0null0は自分の後に立候補者が続くと思っていたようだが、その点はあてが外れた。
現在、論点は0null0をしばらく見習いにするか、早めに管理者にするかに移っている。

Opponentとの対立や2ちゃんねるでの放言から、0null0には粗暴な印象がつきまとう。
が、本人は引くことも追わぬことも知っていると自負している。
書き込みを調べれば、それも間違いではない。
0null0への支持が今ひとつ広がらないのは、彼の貢献がノートや短文付加、修正にとどまり、すべてのウィキペディアンが賞賛するような充実した記事が少ないせいであろう。
ここから彼を議論好きとする批判も出てくる。
執筆者として0null0より優れた人は、確かに多い。
管理者は優れた執筆者でもあるべきなのか、その必要はないのか、そのあたりの意見の違いが彼に対する人々の態度を左右しているようだ。

筆者がウィキペディアンであることは隠しようもない。
書く内容が多くの人を不快にさせるのも間違いない。
そんな、匿名の筆者を卑劣と感じる人もいるだろう。
ごめんね。